展示団体紹介 ~政治経済研究部~ No.7

表現は不自由だ。

愛知で行われた表現の不自由展は中止された。
従軍慰安婦像を用いたアート作品など、政治的なメッセージを含んだ作品が、不適切だとされ、関連する意見が噴出し、展示そのものが中止されたのだ。

私は憤った。

軽薄な意見が、展示を押しつぶすように中止に追い込んだという点において、私はある種の落胆を腹の底に抱え込んだ。

軽薄な意見とはなにか? この件ではオリンピックの記事で述べたこととはまるで逆の、意見の押しつけが行われている。

「国民の心を踏みにじる展示だ」とか、「税金を使って国の方針に反した展示は行うべきではない」とか、まるで核心をついているかのような、作品を見た上での思考を放棄している意見が多数集まって、表現の自由を潰してしまったように思えた。このような意見の発信者のしたり顔が目に浮かぶ。

税金や国民というものを引き合いにだすのは楽だ。国が行う行事は、すべて税金や国が関わっているのであるから、あらゆる行事に税金を引き合いに出せば、ある程度の最もらしい批判をおこなうことができる。これはパターン化されきった思想、意見である。そのようなパターン化された思想が多数派となり、人々は愉悦しながら意見を述べ、展示を中止させる。作品に対しての思考は全くしない。従軍慰安婦像のような、デリケートな(考えて、意見を述べるのが面倒な)モデルのアート作品を見たとき、できあいの言葉にすがって、その作品のメッセージ性や問題提起は一切無視する。個人で考えて消化することができず(あるいは消化を拒否して)、パターン化された思想を持ち寄って、集団的に圧殺する。ひどいものだ。

あるいは、表現の不自由展はこのような無責任な意見によって表現が圧殺されうるということを示したのかもしれない。今のところでは、表現は自由ではない。作品への思考を放棄した人々が、できあいの軽々しい言葉で批判する。そして中止という最悪の結果になってしまった。

国立美術館は東京だけでも結構ある。そこでの展示を軽薄な大衆が不適切だとして中止させるのはあまり聞かない。私がこの間行った美術館の展示などは、服を積み上げるという形式で、ナチスのホロコーストを想起させる作品があった。展示は、私は大変すばらしいものだと感じたが、いかにも「国民の心を踏みにじる展示」と言いたげな人々がこちらを覗きこんでいる。しかし、人々はやがて覗くのをやめて帰っていってしまうだろう。なぜか。作品を表面的しかみていないからだ。

服を積み上げることでホロコーストを想起させるというのは、作品を見た上でのある程度の思考を必要とする。ホロコーストでは、人々は裸でガス室に送られて殺害されてしまっていた。つまり、服が残るわけである。服を積み上げるということは、それらの人々の思念や記憶を一緒くたにまとめて、死者を普遍化するというものとなり、その山は鑑賞者に圧倒的な存在感を放つ。(服の山が直接的にホロコーストを想起させたのではなく、直前までの展示作品や周囲の作品などを含めて思考したものである)服の山は表面的には服を積み上げたものでしかないわけだが、その内部には強烈なメッセージが潜んでいる。この、内部を思考するプロセスを拒否、放棄して(それはもはや鑑賞者としてあるまじき姿とすら言えるのではないか)批判を試みたものが愛知の表現の不自由展の一件である。慰安婦像が使われているから、「国民の心を踏みにじる」。なぜ慰安婦像を使っているのかとか、作者は何を伝えたかったのかといった、作品に対して思うところは一切ない。できあいの言葉で核心をついた気になって、愉悦に浸るのは、「作者の心を踏みにじる」態度ではないか?

作品は、そのものだけで完結しないと思う。作品に対する鑑賞者の思考、解釈も作品の一部だ。解釈は人によって分かれることもあり、全く異なる解釈になることさえある。それがアート作品の良さでもあるのだ。慰安婦像の作品を見て、考えて、「国民の心を踏みにじる」と考える人もいるだろう。ただ、今回、展示を中止に追い込んだのはそういう人ではない。慰安婦像が使われているということだけで、解釈を拒否して作品を否定する人なのである。しかも、そのような人が主流派となってしまっているという現状は、恐怖さえ覚える。

表現の不自由展は、身をもって示唆を与えてくれた。我々はそこから思考し、あるいは解釈して、表現の自由について考えなくてはならない。

タイトルとURLをコピーしました